P5Rは、教育学や心理学、延いては社会問題まで、身近で重要な事柄に目を向けるのに最適な媒体だなと感心する日々。これからは他のペルソナシリーズもプレイして、ここで考えていけたら素敵、と思う。…ただ遊びたいだけとかではありません、断じて。
「人を困らせている人を助ける」、という貴い視点が散りばめられているP5R。これまでの日本的価値観からすると、先進的過ぎるとすら感じる。
主要なところでは、新島冴さんと織田信也くん関連の話になるかと思う。
冴は、勝ち(出世)に拘るあまり、検察官という立場でありながら手段を選ばない。大好きだったはずの父の死は、父の弱い立場が招いたものであり、そのせいで冴自身も苦労を強いられたと学習したからだ。扶養関係にある妹の真のことも、「今のあなたは、役立たず。私の人生を消費して生きてるだけの存在。」と言い放つ。
信也の母も、惨めな人生を恐れるあまりやはり勝つことに執着する。それは自身の損得を優先し、どんな些細な不満でも泣き寝入りはしないという、過剰なまでの不服従の姿勢に表れる。その振る舞いに周囲は辟易し、それが理由で息子の信也もクラスメイトと対立。優しい母を求め苦しむ姿が描かれる。
しかし、P5Rでは、彼らを「改心させるべき悪い大人」と割り切るのではなく、彼らを「助けたい」という視点が共有される。
信也の言葉。「なんにでもぶつかって、噛みついて… いっぱい嫌われて、母さんだって傷ついて… このままじゃ、母さん、壊れちゃうよ…」
P5Rでは様々な立場に立つ人々の心情が描かれるが、やはりその目的は、一か所から見える景色には限りがあると伝えるためだろうと思う。誰が正しく、誰が間違っているかなんてことがあり得るのか。唯一の真実なんて人間には見付けられない以上、既存の価値観も全て疑ってみる必要がある。
信也のこの言葉も、お母さんのこれまでを知っている信也だったからこそ、心の奥から溢れてきたのだと思う、たとえ「悪いやつは殺せ」という風潮の強い日本にあっても。
真にしても、冴さんが苦しんできたことを知っていたからこそ、他者を傷つける姉を「守りたい」という発想が生まれた。
各ミッションにおいても、プレイヤーは、加害者の「そうなってしまった理由」を垣間見ることになる(それぞれの扱いは随分と違うものの…)。被害者側の視点からしてみれば、ただ「悪人」を非難したい気持ちに、ちょっと待てとばかりに一石が投じられる。「そんなの言い訳になるかあー!」と一蹴することもできるが、おそらく全ての加害者を否定しきれたプレイヤーは存在しなかったのではないかと想像する。つまり、その人の経験によっても、許せる範囲や理解できる範囲は違うけれど、立場を抜け出して俯瞰することさえできてしまえば、全ての「悪人」は「被害者」だという構図が見えてくる(関連記事:「思考と感情は別物」「「自己責任」を捨て仕組みを変える必要性」)。特に3学期の出来事を考えても、製作者側の意図するメインテーマはここにあったのかしら。
主に幼少期の経験によって基盤が形成され、その基盤によって生きていくしかないのであれば、果たして人は自身の人生を選択しているのか。パラドックス的な物言いになってしまうけれど、仮に自由がないとするなら、生きる意味をどう捉えて、どう行動するのか。そして、これまで自身が平然と排除してきた「もの」と、どう向き合うのか。これは他者との共存に留まらず、自身のこころの平安の獲得に関わる重要な課題だ。(関連記事:「日本の支援(福祉)が機能しない訳」)
主な参考文献
・「ペルソナ5 ザ・ロイヤル」(2019)ATLUS PlayStation 4
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