いつの時代もマイノリティーが誤解される理由

②けいけん(考え)
画像出典: Mzaya_Blan
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いきなり逆説的なことを言ってしまうが、そもそもマイノリティーとは誤解されるからマイノリティーなわけで、表題の問いはおかしいっちゃおかしい。マイノリティーは、実質的な数における少数派のことを指すのではなく、共有された妄想(常識)の数が少ない人のことをいう。

妄想共有能力でも説明したが、常識とは多くによって共有された妄想(事実かどうかは関係ない)に過ぎない。そしてこの共有された妄想に縛られて、人は社会生活を営むことになる。だからその中に、全く違う文化(妄想)に染まった方が入ってこれば、お互いに戸惑うことになるのは当然のこと。ましてや同じ国の人間であれば、配慮してあげなければ、と考えること自体が難しくなるので、無自覚に相手を傷つけたり、常識から外れた相手を悪(もしくは間違い)だと決めつけ、過剰な攻撃(いじめや差別等)に走り易くしたりする。この構造によって、マイノリティーはいつの時代も誤解され、マジョリティーによって人権を奪われ易い。(私事を挟むが、ぼく自身、子どもの頃の社会的な風潮に身を委ねていた。病気になり自分自身がマイノリティーになったことで、社会の残酷さに直面し、それまでの自身の全てを疑わざるを得なくなったのだが、逆にいえば、それがなければ、ぼくは今でもマイノリティーを蔑み、馬鹿にしていただろうと思う。今の自分がマシになったかは分からないが、それでも当時の自分を思うと本当に恥ずかしいし、申し訳ない気持ちになる。)

近年になって、性の多様性を社会的に認めようという動きが、日本でも少しずつと強くなってきたのではないかと思う。しかし、男女二元論のキリスト教的な考えが輸入される前は、日本は性の多様性に寛容な文化だったと聞く。これを言い直してみると、男女二元論が妄想共有され常識化されたことで、日本人は多様性の妄想に在籍価値を見出せなくなっていたが、また社会の流れによって数(力)の変動が起こり、元の妄想に所属することに価値を見出せるようになってきた、となるだろうか。他者の存在を織り込んで自身の心(脳)すら形成していく人間にとって、完全に独立した価値判断など不可能だといえる。
常識は道徳も必要とはしないため、多様性が認められないことによって、苦しむ人が沢山存在した。ここまでくるためには、理解者を増やすための、誰かの影の努力があっただろうことは、容易に想像がつく。本当に頭が下がる思いです。そして、今も理解されていないマイノリティーは、まだまだ数え切れないほどに存在している。

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