ルールは平等じゃない

②けいけん(考え)
画像出典: ChatGPT
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人は皆遺伝子も環境も違い、置かれている状況が違うため、基本、万人に平等に働くルールなど存在しないし、作り得ない。同じ人物にとっても、時期や状態が違えば、そのルールの重さは変わってくるので、常に配慮や例外が必要になってくる。
同じ条件では無理!が分かりやすいのは所得税かもしれない(もし、所得税を収入に合わせた金額を払う税、というルールだと解釈するなら喩え失敗…)。ただ、これがもし数字など誰の目にも明らかな指標がない場合、配慮は得られるだろうか。

ルールを人の基本・完全なる善・道徳のように捉えている人が、日本には多いのではないか、と感じてきたが、ルールの本質は暴力だとする考え方がある。理由は、「ルールを守れ、でなけりゃお前を殴る」がその基本だから。確かに…!眼鏡かけたスーツ姿の大人たちもみんな不良に見えてくる…(ような気がする)。ルールは不必要とも言えないが、あくまで必要悪であり、有無を言わさず強制させるのであれば、そのルールは限りなく暴力に近しい存在になる(理念等の方向性を示すものであれば、必然と暴力性は薄まると思う)。

暫く前まで、日本ではルールが今よりも絶対的なものだった。「例外は認めない。」、「お前に例外を認めたら、他の奴にもそれを認めなきゃいけなくなるだろう?」というのが、守らせる側の常套句だったかと思う(学校などで耳がタコの方もいらっしゃるのではないだろうか)。ところが近年になって、「合理的配慮」という言葉が台頭した。この言葉を広めた人は天才だと思う、既存の2つの言葉を繋ぎ合わせただけで、これまでの共有された価値観、理論では動かせなくなったガチガチの風土を揺さぶってしまった。ルールはあくまでルールでしかなく、絶対的なものではない。

ここからは余談となるが、中年高校生の頃、ぼくの学校でもやはり先生が「ルールを守れ!」と言っていた。ぼくが一番困ったのは通学で、車なら10分の距離なのに、歩きなら山道込みで1時間歩かなきゃいけないし、公共交通機関なら片道1時間半~2時間かかってしまう。おまけに高額の交通費がかかる。しかし学校側は、親御さんに送ってもらうのはいいが、自身での車通学は断固として不可だという。ぼくには家族もいない。当時はバイトしながら勉強時間を確保することに必死で、こちらの私的な事情を共有し話し合ってくれるうよう学校側に掛け合ったのだが、無残な結果に終わった。「話し合ったけど、ルールだからダメ」…(後で、情報共有もされていなかったことが明らかに。)
一方大学に進学すると、ぼくらは教員免許を取得する上で、「合理的配慮をしなさい」と習う世代になった。(高校の時にも合理的配慮ということは言われていたはずだが、現場はまるで追い付いていなかったし、教員は基本ルールを守れば幸せに暮らせるマジョリティー側で育っている人が多いため、ルールに例外を作るということの意味が理解できないようだった。)また、「ルールだから守れ!」では主権者教育ができないと習う。本来日本では(表向きには)国民主権、基本的人権の尊重が掲げられている。どのような状態にある人にも平等の権利があるのだから、むしろ主体的に権利を行使できる人間を育てなければ、その理念(憲法)から遠ざかってしまうことになるからと。この数年の間に、「ルールだから守れ!」は、「常識」から教員がやってはいけないことへと変わり始めている。

ルールに限らず、常識の中には、そういうものと思い込んでいるだけのものが沢山ある。常識(大勢に教諭された妄想)に振り回されるのはばかばかしいと、クリティカルシンキングが推奨されるわけだけど、その全部に気付くのは、人間には難しいだろうなあ…
(関連記事:「妄想共有能力」)

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