「ぼくに起きてることと似てる」、映画「でっちあげ」予告編を見てそう思った。ワンシーンだけでも、あれほど強い感情が湧いたのは、きっとぼくだけじゃないと思う。
映画「でっちあげ」は、福田ますみ氏の事実に基づいたルポルタージュ小説、『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』を元にした作品だそう。
2003年に起きたその事件では、実際には教師によるいじめは認められなかったものの、その話題性が大衆を巻き込み、悪意ない人たちの力が当該教師を追い詰めた。
ぼくは、周囲の大人(社会)から否定され続ける経験をしたが、ぼくも、何も悪いことはしていない。家族のネグレクトによって苦しんでいただけなのに、家族の評判がよかったがために、子どものわがままと叱責され、精神疾患に陥り、結果その後22年間、ひたすらに苦しみ続けることになった。ほぼほぼ軟禁状態下でのできごとだった。(関連記事:「教育の理論」)
二次的被害である精神疾患は回復したものの、現在も周囲からの誤解は解けず、地域で孤立している。高校、大学を卒業し、教員免許も取得したが、就職どころか、PTSDのまともな治療すら受けられない。「関連記事:「専門家に頼れない?心の問題」」
映画との違いは、映画では、私たちはあなたの味方よ!みたいに言ってくれる家族が存在していたようだが、ぼくはひとりぼっちだった。名誉も回復していない。致命的なのは、ドラマ性の低さか。
最近話題になったゲーム、「都市伝説解体センター」も、メッセージの軸にあるのは同じものだった。信じたいものを信じる一般人の正義が、分かりやすい被害者を生み、甚大な被害を与える。日本の一日の自殺者数約60人を鑑みると、現実では、死まで追い込んでいるケースが少なくないだろう。それでも、一般人である我々の中には罪悪感が生まれることすらなく、娯楽商品よろしく忘れ去っていく。私たちは誰しも、人殺しの罪を背負って生きているだろうに、自身の都合の良い正義を信じて疑わない。(関連記事:「都合の良い理論や正義が人を追い詰める(※「都市伝説解体センター」ネタバレ注意)」)
ところで、ぼく自身は、普通に教員からいじめにあっていた(当時37歳)。「でっちあげ」のことを考えると、これが公になっていた場合、大きな社会問題になっていた可能性もあったわけか…これは教育委員会ぐるみで握りつぶすしかないわな…
ぼくは私学から通信へと移籍したため、二つの大学のお世話になったが、教員免許を取得する過程で、どちらからも全く同じ問いかけをされたことがある。「近年、教師による不祥事が多発し、教育委員会ぐるみでの隠蔽が問題になっている。あなたは、どうしたらこの状況を変えられると思いますか。」といったものだ。教員の卵に対するもっともらしい設問にも聞こえるが、ぼくは初め噴き出してしまった、「それはあんたらが考えるべきことだろう!」。でも一つ言えるとするなら、自分たちで判断・決行せねばならないのに、そんなに厳しいルール(懲戒免職やメディアにおける写真や名前の公開)を課してしまっては、そりゃ身内を守ることしかできなくなるだろうとは思う。「明日は我が身」なのだ。その裏では本当の被害者が、ひたすらに追い詰められてるっていうのにね。(勘違いされやすいが、問題なのは表面上の被害だけではなく、被害者が人を信じられなくなることにある。その結果、ひきもりや精神疾患、自殺へと派生してしまう。だからこそ、謝罪や補償が重要なのだ。)
この延長上で言いたくないし、「日本の常識」を考えると、はっきりと言うのは憚られるけれど、「加害者は被害者だ」という構図を忘れてはいけないと思う。これは科学的事実を元にした考え方になる。人は、環境学習の生き物だから、人格形成は相互作用でしかなく、自己責任はあり得ない。これは、自身を苦しめた加害者すら、本来は救わなければいけないという、被害者からしてみれば到底受け容れられない事実の突きつけでもある。
被害者が加害者を恨むのなんか当たり前。当事者の心が壊れそうなときくらいは、無理に受け容れなくていいと思う。まずは恨めばいいと思う。無理に許すことは心理学的にもよくない。それでもその上で、どこかのポイントで、ぼくらはそれを事実として受け容れるしかない(たとえ許さないままでもいいのだ)。だって、まず科学的観点を知る以外に、人間社会の前進への第一歩はあり得ないと思うから。現代社会は、その証拠でできてると思う。
主な参考文献
・東映映画チャンネル(2025年4月22日)「映画『でっちあげ』予告|6月27日(金)全国公開」YouTube https://www.youtube.com/watch?v=K8szCClvsEQ 2025年7月7日視聴
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