思考と感情は別物

②けいけん(考え)
画像出典: sangphotography
スポンサーリンク

・はじめに
当記事には、人権問題等の社会的課題を共有していただきたいという意図が含まれます。また何某かの犯罪やいじめ等によって、現在苦しみの渦中にいらっしゃる方には、この先の記事が負担になるかもしれません。ご理解ご了承の上、ご無理のない範囲でお読みいただければと思います。

・本文
思考と感情は別物。改めて言うと当たり前のようですが、これは他者との衝突や犯罪等が発生した時、重要な観点になります。私たちは度々感情にのまれ思考を放棄することを美徳とさえみなします。しかし、これは回りまわって多くの生きづらさを生み、死刑をよしとする日本の風潮に繋がっていると考えます。かといって被害者側の立場に立てば、「加害者も被害者なのだ」と言われても納得いかないでしょう。どちらも置き去りにしないためには、どのように考えていけばいいのでしょうか。

私自身、両親や日本社会を許すことはできません。しかし、祖父に奴隷のように育てられた父や、満たされずに大人になっただろう母のことを考えると、複雑な気持ちになるのも事実です。(全てを許さなければと考えていた時期もありましたが、みきいちたろう氏の『発達性トラウマ「生きづらさ」の正体』を拝読したことで、無理に感情を変えようとすることは自己否定に繋がってしまうため、治療に向かうための理論としては破綻してしまうことに気付きました。)

たとえば、日本では時折、障害者に対する深刻な犯罪が報道されます。それに対し専門家が、「犯人だけを死刑にして終わる問題ではないのです。」と訴える。しかし結局は犯人だけが死刑になって、またしばらく経つと似たような事件が発生する。これは決して犯人を正当化したいという目的で書いているわけではありませんが、断言できるだろうことは、そういった犯人も、差別的ではない適切な風土で育っていれば、そのような行動を取ることはなかった、ということです。人間は遺伝子と環境で決まるといわれますが、人のこころ(脳)は他者の存在を織り込んで形成されるものであるため、無意識レベルでの思考は環境要因が大きいと考えられるからです。

根本的な解決に向かうためには、適切な教育がいきわたり、安心して暮らせる社会的風潮が必須です。行政から独立した国内人権機関もなく、子どもの養育は親の責任だとし、子育てに介入する術もない日本では、機能不全家族に生まれた子どもや親を助ける手段がありません。学校教育も同様です。優性思想や精神論の根強い日本では、そこから派生する問題も自己責任という言葉で処理されることが殆どです。

自身や大切な方が犯罪に巻き込まれ傷つけられて、悲しくて悔しい思いをするのも、相手を殺したいくらいに腹が立てるのも当然のことです。そして周囲がその方たちを気遣い、守る必要もあると考えます。けれど、被害者ではない人たちまでが感情移入に身を任せ、犯人を問答無用で糾弾し、「〇してしまえ」という姿勢では、日本は何も変わっていきません。

思考と感情が別物であることを認識し、自身や被害者の感情をしっかりと認め受け止めながらも、周囲は問題の本質を見失わないようにすることが大切だと考えます。本質とは、人間は個人で成り立っているものではない、つまり加害者もある意味では被害者だという事実です。私たちは、感情単独においても、完全に矛盾を捨てることができません。個人レベルでも集団レベルでも、思考と感情を仕分けし、立場によって役割分担することで、社会レベルで問題を解決していくことができると考えます。むしろ社会レベルで考える必要がある問題なのです。

主な参考文献(作者五十音順)
・「【後編】旧優生保護法を陰で支えた社会通念」NHKハートネット福祉情報総合サイト 2021年12月18日参照 https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/79/
・「「子どもの人権」日本で理解進まないのはなぜ? 国連の「権利条約」世界158番目批准から28年、やっと議論開始」東京新聞TOKYO Web 2022年8月19日参照 https://www.tokyo-np.co.jp/article/175490
・みきいちたろう(2023)『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』ディスカヴァー・トゥエンティワン

コメント

タイトルとURLをコピーしました