「信じる」という行為は美談のように語られることが多く、一見素晴らしいことのようだけど、他の何かを、誰かを切り捨ててしまう行為でもある。
「自分を信じて。」
「あの人がそんなことするわけない!」
自分を信じて他者の言い分を理解しようとしないから争いが起きるし、同様に誰かを信じて第三者を切り捨てれば、自身まで加害者になり得る。
誰にでもいい顔ができる人間は存在しないだろうし、他人を平気で陥れるような状態にある人でも、仲間や恋人、家族には優しかったりする。これはある意味自然なことで、独立して精神状態すら健康に保てない人間は、「群れの仲間」にある程度いい顔をしなくてはならない。
凶悪な犯罪が露見するとき、周囲からは「まさかあの人が…」といった反応が得られることは多い。「#MeToo」運動で話題になった映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインも、ジェンダー平等を掲げる政治家への献金をする側面を併せ持っていた。途端にスケールが小さくなるが、ぼくの家族も、病気の我が子を虐待する一方で、友人の相談に乗ったり、その子どもに手を差し伸べたりと、周囲に愛想を振り撒いていたっけ(自身らが愛情・安心を感じて育っていないため、周囲に認めてもらうこが生きる目的と化してしまったと考えられる。関連記事:「教育の理論」)。
人間は返報性の強い生き物だから、自分に利益のある人を信じたい気持ちは分かる。でも、それで性犯罪の被害者や、虐待にあう子どもを苦しめてしまうかもしれないと思えば、信じるって、そう綺麗なことでもないよねということになる。
ただ、じゃあ何も信じない方がいいのかといえばそうではなく、そういった習性を知ってメタ認知しておくことやバランスこそが大切であるようです。人は自分自身や未来をある程度信じて、楽観視するような部分がないと、健康に生活することが難しくなってしまうから。中道、中庸、moderation。
主な参考文献
・「ハーベイ・ワインスタイン事件:ここまでの経緯をおさらいしてみる」Yahoo!ニュース 2024年11月15日参照 https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8abff8c425e37078300a9838c3d99cb5ef3fdcca
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