「他人と違うこと」と「自分らしさ」を混同しないために

②けいけん(考え)
画像出典: vandesart
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このブログでは、人の持つ「妄想共有能力」について、何度か書かせていただきました。
妄想共有能力というのは、「妄想(考え・思考)においても群れ(集団)を作ることで、安心感を得たり、仲間意識を高めたりする」という、人間の持つ本能的な能力のこと。(流行やいじめ、空気読みは大概これを原因にして起きています。)
今回は、同じ妄想共有の内にある行動でも、一見異なって見えることがある」という話を通じて、「自分らしさ(自分の価値観を大切に生きること)」の意味・重要性を考えます

他の誰かが座れない椅子に座るか
他の誰かも座れる椅子に座るか

これは、ひとつの妄想に在籍するときの、居場所の確保の仕方を表現しています。
「他の誰かが座れない椅子に座る」というのは、たとえば、(妄想として機能する)ひとつの流行を、自ら作り出そうとすること。当該コミュニティにおいてはその群れや価値を生み出した張本人なので、集団内におけるその地位はそうそう揺るがない。追放される心配のない、自分だけの特別な椅子が用意されるイメージ。
一方「他の誰かも座れる椅子に座る」というのは、上述したような、流行という妄想が既に存在していて、そこに自身も参加するようなこと。会場に用意されている椅子に座るイメージです。それだけで集団に属しているという仲間意識・安心感を得られますが、取り換えが効くような地位なので、自分がいなくてもいいのでは…、といった不安は残ります。
前者が人気者になりたかったアイドルであれば、後者はそれを支持するファンということもできます。

このように、全く異なった両者、価値に映るときも、「群れたい」という本能的な欲求からくるものであれば、同じ妄想共有内の行動と捉えることができるのです。
そうすると、他人と違う自分であろうとすることと、自分の価値観に従って生きること(その結果他人と違う自分になること)は別物だということが、はっきりと分かってきませんか。前者は妄想共有の内にある行動ですが、後者はその外にある。前者は主体が「他者、集団」にあるけれど、後者は「自身」に主体がある。仮に、他人の目を気にせず振舞った結果、流行の中心になったり、結果アイドルになったりするのであれば、これは自身に主体性がある例になりますね。(流行やアイドルは意図して仕掛けられるものですし、そうそうあり得ないレベルの話に思われますが…)

時折、自分軸で生きることの大切さが訴えられますが、私自身も含め、アダルトチルドレンや発達性PTSDの場合には、これが非常に困難になります。人の愛情を感じ、安全感、安心感の中で育てないと、群れとして認めてもらうことだけが生きる目的になってしまうからです。おなかが空いて死にそうな時、なりふり構っていられないように、孤立という(群れをつくる生き物にとって)死を意味するような危機感を前にすれば、自分がどう生きたいのか、などと考える余裕はなくなってしまう…

決して、妄想共有は悪だ、頑張って撲滅しましょうという話ではありませんが、人間にはその能力が備わっていることをメタ認知し、本当に大切なものは何か、自身の価値観をある程度優先させるように生きないと、人はいずれ何処かで途方に暮れてしまうようです。特に「和」という名の元に妄想共有を非常に重んじる日本では、集団にある時、並々ならない同調圧力に支配されてしまうことがあります。幸か不幸か判断しかねますが、現代は生き残るためにそれを必要とした時代とは違います。健康的な精神状態を保つため、社会的価値観(大きな妄想)から完全に外れることは難しくても、行き過ぎることのないよう気を付けたいものですね。

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