公衆トイレの水を舐める、という治療。(体験記)

②けいけん(考え)
画像出典: ChatGPT
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1. はじめに

強迫症(強迫性障害)の治療(心理的介入)のためぼくが最初に行ったのは、公衆トイレの便器に溜まった水を舐めることだった、というと、驚かれることがある。念のため、性癖とかの話ではなく。

2. 認知行動療法: エクスポージャー概要

強迫症や不安障害、PTSDの治療法として用いられる認知行動療法の一種、エクスポージャー。エクスポージャーは、強くなり過ぎた不安に真正面から突っ込むことで、不安は不安に過ぎず、恐怖対象に接触しても何も起こらないことを確認していく作業(大雑把な解説ではありますが…)。回避するほどに膨れ上がるという、不安の持つ性質故のものだと思われる。

ぼくの知る限り、エクスポージャーが一般に受けられるようになったのは、今(2024年)から10年程前。海外では約30年前には確立されていたこの手法、ようやく日本でも、強迫症等の「適切な治療法」として知られるようになった。医師ではなく、主に臨床心理士の指導の下行われるため、現状病院では受けられないことが多い。そんな中でも日本の精神科医療の遅れを認知していない医師・医療機関に出会う機会は珍しくなく、ただ、薬と長期入院を強要し続けている現実を前に、複雑な気持ちになることは多い。が、またおじいちゃんこの話始めちゃったよみたいになるので、一旦歴史の話は置いておく(情報社会ってなんだろうか…)。(関連記事:「専門家に頼れない?心の問題」)

3. 受診するまでの流れ、体験

強迫症の中でも、ぼくは潔癖恐怖・洗浄強迫という部類の疾患で苦しみ、後に発達障害故だったのではないかと言われるほど、症状は酷いものだった(現在は発達障害ではなく、発達性PTSDだろうという話に。どちらも理由は環境によるものだという説も)。他者の体から分泌されるもの全てが恐怖対象であり、人間の溢れる外の世界に出るだけで、ぼくには自殺行為のように思われた。自分がおかしな強迫観念に取り付かれている自覚はあるものの、22年間の間、最低一日6時間以上(多ければ起きている間中)の手洗いをやめることができず、心身共に衰弱した状態だった。

恐怖を植え付けられた日本の精神科医療や差別・偏見の話も一旦置いておく…

4. 22年苦しんだ末に、ようやく治療開始

35歳になった頃、過去知り合った方からメールで当該クリニックと治療法の情報を聞き、速攻で受診。治療法の荒療治さ加減に、恐怖で毎日呼吸困難に陥ったが、楽になりたい、治りたい一心で取り組んだ。そしてその最初の治療が、「じゃあ、最初は公衆トイレの水を舐めてみましょうか。」だったという…

感じのいいお兄さんが、ものすごく爽やかに言うわけですよ、「まずは一緒にこの便器を隅々まで触ってみましょう!」って。当然、ロケーションは公衆トイレの狭い個室。まだ入り慣れている男子トイレで良かったとも思えず、ひたすらに気まずい。そもそも個室に二人で入ったことなんかない。しかしお兄さんは臨床心理士であり、プロ。あくまで朗らかに、「便器、ここ黒ずんでますね、ここを触った手で、自分の耳の裏も触ってみましょうか。」とおっしゃる。ひとりだったら無理だったかもしれないけど、隣でなんてこともないように、恐ろしい提案を自ら実践してみせてくれる…。やるしかない、時折恐怖で息ができなくなりながらも、毎日新しいことに取り組んだ。2、3週間の間、一切水に触らない「水抜き」というエクスポージャーでは、お風呂なんて論外、トイレ行っても手を洗わない。汚いですか、そう思いますよね、それは当の本人が一番に思ってた。それでもたった2か月ほどの治療で、重症だったぼくは、日常生活が送れるレベルにまで回復(改善)していた。

5. その後に残ったもの

残念ながら、それで全てが解決とはいかなかった。以前にも書いたが、精神疾患から解放され、理不尽な体験をこころの中に押し込めて生活する必要がなくなると、それらトラウマ体験と自身のすさまじい怒りの感情に翻弄され、病気に向かわざるをえなくさせた問題の核心と直面することになったから。そしてそれは「よくあること」なのだ。

日本でも一部専門家がそう主張するように、精神疾患は「こころの弱さ」といった精神論的な概念ではなく、追い詰められれば誰もがかかる可能性のあるもの。適応規制の延長線上にあるものだと考えるのが妥当だろうと思う。そして追い込まれる人の特徴の傾向としては、適切な教育を受けられていない、その度合いが強い。つまり、社会生活を送る上でのこころ(脳)の基盤が整っていないまま社会適応を求められるがために、徐々に追い詰められていった結果の産物だと解釈できる(関連記事:「教育の理論」)。精神疾患、ひきこもり、自殺、過剰な努力…。勿論、生育環境だけが精神疾患の原因とはいえない。しかし日本人の80パーセントがアダルトチルドレンの性質を持っているといわれるような社会風土であるだけに、一見しての「例外」が、実質例外であるかは疑わしい。
子どもにとって「最低限必要なこころのケア」の欠如から追い詰められ、病気を発症することで身を守った、というのが理屈。そしてその本能的な理屈が狙い通り機能していたかはまた別の話。だからこそ、強迫症を治療した後に露見したのは、こころのケアを求める幼児のままのこころ(脳)だった…

根本的な問題(発達性PTSDに至る原因)がまだ解決していないにせよ、強迫症が治ったことは本当にありがたいことで、特に当時お世話になった臨床心理士の方には感謝をしている。しかし感謝といえば、当時の、上記をより印象付ける出来事が思い出される。

病気から自由になれたことについて礼を述べると、当該医師から意外な言葉が返ってきた。「この仕事は成功しても感謝されることなんか殆どないから、そう言ってもらえると救われるよ。」言葉の意味が理解できず聞き返すと、治療によって自由になった人の多くからは、「こんなことなら病気のまま苦しんでいた方がまだマシだった!」と、反対に恨まれるまであるらしかった。
繰り返しになってしまうのだが、現実の問題から身を守るために病気になった(もしくは追い込まれた)のだから、病気を取り除いてしまえば、当然今度はその本質的な問題に帰ってこなければいけなくなる。しかも、多くの患者たちが支援のない中長いながい年月をただ苦しんできただけだから、現実の社会に彼らの居場所なんて存在しない。病気になるほど苦しんだのに、病気が治ってみれば、実際の状況はただ悪化しているだけ。その渦中に、しらふの状態で叩き出され、残酷な現実を突き付けられるのだ。社会的な理解もない。だから、その医師は「治療しても感謝なんかされない」、と言うわけだ。

余談となるが、家族の愛情を感じて育った人は、子どもを愛さない親はいないと信じているし、結果として助けられなかっただけでは?と考える人も多い(無意識レベルで人間を味方だとみなしている)。だからそれは家族のせいでもない、と言いたいのだろう。まず、親が悪いかというと親もそのまた親の被害者であり、もっといえば機能不全家族を前提に社会支援が構築されていないがために、日本では金銭的・教育的格差が広がっている。そのため、悪いという概念のラベルを貼り付けらることはできないが、親にそのつもりがなかったか、というとまた別の話になってくる。問題のある家族(主にアダルトチルドレンの家系)は、主に無意識にではなるが、メンバーを犠牲に追い込むことで、またそれを維持し続けることで、山積する問題を見えなくしてバランスを取り、家族という体を保つそうだ(無意識化で敵だと認識する人間からの自己評価を死守し、自己防衛しようとする)。ある程度意識的にやっているケースもあるだろう。そしてかろうじて保ってきたそのバランスが「治療」によって崩れれば、当然「家族」はバラバラになる、と。それはまんまぼくの家族のことでもあった。

主な参考文献
・原井宏明 岡嶋美代(2015)『やさしくわかる強迫性障害』ナツメ社

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