心が強い・弱い、という表現は、私たちの社会では常識(実のところは多くによって共有された妄想)のように使われていますが、これは誤解を招く表現だろうと考えています(関連記事:「妄想共有能力」)。困っている人々に対し、自己責任の名の元に、必要な支援や医療を切り捨てる日本社会の現状は、このような言葉に表れている人々の認識によって、形作られているといえるでしょう。
そこで今回は、この「心が強い・弱い」といわれる状況とその表現について、考えてみたいと思います。
たとえば。とあるプロのスポーツ選手が、他選手と比べ物にならないほどの努力の結果、オリンピックメダルを勝ち取った時、社会はその方を「心が強い」と評価することがあります。本来苦しいはずの練習に耐えるどころか、他者以上の量をこなし、結果まで手に入れている、と見做すからでしょう。(念のため、このような方に対し素晴らしくないと言いたいわけではありません!)
(その方も出来事も、間違いなく素晴らしいのですが、)ここでは、表現の適切さを確認するために、思考実験として次のような質問を投げかけてみます。(勿論、その質問が事実を指摘しているとは限りません)
・「この方がもし、生育環境に恵まれ、どんなことがあっても必ず助けてもらえるという安心感の中で育ってきていたとしたら?現在もそのような環境下にあるとしたら?」(関連記事:「教育の理論」)
・「そのスポーツを好き・楽しいという、本人の一次的な欲求のみを原動力に、練習を行ってきたとしたら?」
・「一連の活動に対して精神的苦痛を感じづらくするような、ストレスに強い遺伝子を持っていたとしたら?」
次に、「心が弱い」と言われる状況でも同じことをしてみましょう。
たとえば、子どもの頃から引っ込み思案でいじめられっ子、大人になっても家にひきこもり続けている方がみえたとします。苦しそうに見えるが、誰かに助けを求めることもできない。ご家族がなくなった後、そのまま餓死してしまわれた…。私たちの社会では、このような方を「心が弱い」と評価しがちです。再び、次のような質問について考えてみましょう。
・「この方がもし幼少期から虐待にあっていて、人間に対して、恐怖心と不信感しか持っていなかったとしたら?そのせいで人間関係を築くことすらできなくなっていたとしたら?」
・「両親が極度のストレス状態にさらされた経験を持つなどして、ストレスに弱い遺伝子を持っている方だったとしたら?(エピジェネティクスでは、DNAの塩基配列はそのままに、どの遺伝子を使うか、遺伝子内のどの情報を使うか、といったON・OFF命令が、子どもにも伝達されることがある、とされる)」
・「アダルトチルドレン・発達性PTSD、愛着障害等を理由に、自身の意志(欲求)を持てない状態だったとしたら?」
いかがでしょうか。このように考えてみると、一般に「こころが強い・弱い」という表現は、主に他者比較という文脈において用いられているのだと分かります。条件によって、評価は変動するものだと確認できるからです(私たちは、相手の事情を知らないまま評価を下している)。人は遺伝子と環境で決まりますが、それらが皆異なる以上、比較すること(比較差に価値を見出そうとすること)自体に無理があるのです。
ひきこもりや自殺といった日本の社会問題がなぜ解決されていかないのかというのも、「こころが強い・弱い」といった表現の根にある非科学的(精神論的)な認識が、合理的な視点を見失わせているからだと考えられます(自己責任論のもと差別視すれば、人間には他者を助けようという優しい気持ちを持つことも難しくなります。反対に、麻薬常習者やホームレスの自己責任説も、現代では崩れつつあると認識しています)。
私事になりますが、私自身もこれまで、周囲から「心が弱い」というレッテルを貼られてきました。反対に、精神疾患の(適切な)治療をきっかけに猛然と動き出した私を見て、周囲は「ようやく頑張り始めた・強くなった」という評価を下しました。しかし、私自身はまったく、そうは思っていません。たとえ何もしていないように見えていたとしても、誰にも理解されず、医療関係者からも差別を受け、本当には加害者側にあった家族からも悪者・犠牲にされて、苦しさと屈辱の中理性が崩壊していったそれまでの35年間の方が、私にとっては明らかに辛いものでした。その後の、自分のために・人間に復讐するためにと、勉強に明け暮れ、毎日気絶するように眠った日々も、決して楽しいとは言えないものでしたが、どちらがマシかと問われたら、比べようもなく後者です。
この世には、社会からの支援どころか理解すら受けられず、近所から変質者扱いを受け、嘲笑されるような方々が沢山いらっしゃるのだと思うと、ただ心が痛みます。このような方は日本に留まらず、今も現在進行形で苦しんでおられます。
皆さんのご近所にも、いじめや差別の対象にされている方がみえるはずです。時折、「あの人は自己責任だからこれは差別じゃない、攻撃されて当然なんだ」とおっしゃる方がみえますが、本当にそうでしょうか。「努力しない人間が悪い、迷惑をかけたのが悪い、気持ち悪いのが悪い」、「子どもに危害を加えるかもしれないから、家族を守らなければいけないから」と、攻撃する側は大抵正義を主張します。ですが、少なくとも私個人は、自己責任で差別やいじめにあっている方を、一度たりとも見たことがありません。現実においても記録においても、です。それに、個人的にどんなに憎む相手だったとしても、仮に私がその人の遺伝子と環境を以て育てば、私はその憎む相手そのものになっているはずです。だから憎まないとは言わないし、許すつもりもありませんが、もしもそれを理由に世界がその人を差別する・殺すと言うようなことがあれば、私は全力で止めます。それは私が慈悲深い人間だからではなく、単に私が科学的な知識を持っているからです。ルソー曰く、自分もそうなっていたかもしれないという思いがなければ、同情はできないそうです。
早急な国内人権機関の設立と、科学的な視点による当人のための医療、福祉、支援の充実等を、切に、願っています。
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