ペルソナ5ザ・ロイヤル(以下P5R)は素敵ゲームだった。エンディングまで遊び終えたが、明智のような生育環境の問題だけでなく、幸福の意味について考えさせてくれた。(関連記事:「大空スバルさんと明智吾郎くん」)(因みに、素晴らしい結論に辿り着いているわけではありません。ヨロシクオネガイシマス。)
終盤、プレイヤーは「自身で選択して生きる、理不尽で不平等な現実」と「○○に用意された、幸せで管理された現実」、その間で選択を迫られる。どちらを選んでもそれぞれにエンディングが用意されていて、勿論双方体験させていただいた。
ぼくの考えとしては、そもそも人は自分で人生を選んでいないし(関連記事:「「〇〇な人に近付くな!」は大概、偏見」)、ストーリー設定によれば、最終的には「管理されている」という自覚も「事実がゆがめられた」という記憶もなく幸せに暮らすことができるようになるので、自分で選んでなかろうが管理されてようが、後者の世界で何も問題ないじゃないかという気はする。でも、本物のリアルではその選択をすることはできないし、理不尽で不平等な社会を良くしていくための努力はできても、それこそ報われることの方が少ないのだから、前者を支持する主人公たちの主張を興味深く見守ることになった。
筆者の解釈になるが、主人公たちの主張は主に以下のようなものだった。
・これまでの苦しみやそこで得たものを否定したくない(自己否定したくない)
・理不尽で潰れてしまったり、死に追いやられたりする人がいる現実でも、それでも前に進んでいくしかない
・自分の人生は自分で決めたい
・「〇〇に用意された、幸せで管理された現実」も決して間違いではない
・○○は現実と向き合っていない、逃げている
もともと○○には、「全て」の人を助けたいという動機があった。どんな問題が起きても前を向いて生きていければ理想だが、そうして生きていけるケースばかりじゃない。その優しさ故、主人公たちの意思を否定してまで、現実を作り変えることに抵抗がないわけでもない。主人公たちの気持ちも分かるし、当然主人公たちも○○の気持ちが理解できる。その上で、お互いの信じるもののためには戦わざるを得ない。
ぼくはどちらかといえば○○に感情移入して観ていたので、主人公たちの主張は理解できる部分もあるが、自分さえ良ければいい、という主張に聞こえてしまうこともあった。それは、主人公たちが思う人生とは、全く別次元の人生を強いられている人が、世界には山ほどいると学んだからだった。自分でも極端だと思うし、それが体現できているわけでもないのに、誰かが犠牲を強いられた上に築かれた誰かの幸せにどれほどの意味があるのか、とさえ思う。
話は一旦ゲームから離れるが、専門医が見付かってある程度自由の身になるまでの間に、ただ一つ学習したことがある。それは「自分がどうあるかなんて関係ない、人は他人に認められなければ生きてさえいけない」ということだった。
人間は社会的な生き物で一定量は価値観すら共有せざるを得ないので(関連記事:「妄想共有能力」)、孤立した状態で精神(脳)を健康に保つことは、限りなく不可能に近い。全員が参加・適応できない社会、更には福祉が機能していない社会(例として現状の日本)であれば、排除された人たちはかなりの質量の苦しみと共に生きていく他なくなる(理論の伴った専門性の高い対処法の話は一旦置いておく)。このブログ内では何度も主張しているが、だからこそのひきこもり推定140万以上だし、一日の自殺者数約60人だ。もっと端的に言えば、どんなに清廉潔白に生きている人でも、あいつは△△だぞ!殺してしまえ!という状況になれば殺される以外ない。そこまでではないものの、ぼく自身、どんなに苦しみを訴えても、助けを求めても、正しいと思うことを主張しても、人間扱いされることはなかった結果、恥ずかしい話ではあるが、身を守るためひとり幼児退行し、色んなことが分からなくなる時間が増えていった。
でもこういった極端と思えるケースは、例外と呼べるほど稀なケースではなく、監禁されて自由を奪われる人、痛めつけられる人、レイプされる人、殺される人なんて山ほど実在する。殆どの日本人は知らないまま過ごしているようだけど、当然この日本にだって(日本だからこそ?)監禁含む多くの人権侵害が存在し、国連からは勧告が相次いでいる。犯罪者個人が、というだけの話ではない、国ぐるみで犯っているから勧告が来るのだ。主人公たちは、それを知っての上で主張していたのか分からないが、もし自身らがそういった状況に放り込まれた時、「それでも前に進んでいくしかない」と、同じことが言えるのだろうか…、とぼくは思った。思考すら停止するような状況下で、ナチスに囚われたヴィクトール・フランクルのように、希望を見失わずに生きることは誰にでも可能なことなんだろうか。かわいそうな目に合うメンバーは多かったが、明智以外は他者と関係が築ける基盤を持っていたし、だからこそ助け合えた。だから、明智以外は生き残れたのではないのか。
冒頭でも触れたが、監禁に限らず、そもそも人間に自由などなく、選択の余地などないと僕自身は考えてきた。人は遺伝子と環境で決まる。それこそ明智のように、どんなに優秀な遺伝子を持って生まれても、誰からも必要なものを与えられなければ、生きること自体が苦しいままに彷徨わなければいけなくなる(解決のための適切な情報に巡り合えるとも限らない)。
これは土台自体を選べないので、どれだけ選択を繰り返したつもりでも、結局それは土台ありきの化学反応でしかないだろう、という理屈になる。仮にそう考えることが妥当であれば、「自分の人生は自分で決めたい」という発想が根本から揺らいでくる。良いか悪いか以前の問題だ。本質的に自由であることが幸せなのではなくて、自由だと感じられる状況、自身で幸福を選択できると感じられることが大切なのだろうと思う。
そういった理由から、ぼく自身は○○の考え寄りではあった。「寄り」というのは、ぼくらは実際には「理不尽で不平等な現実」で生きるしかないので、主人公たちのように、前に進もうがそうでなかろうが、まずこの現実を受け容れるしかない。うまくいかない時、足掻くのか、苦しみにこそ意味を見出そうとするのか、違う幸福の形を探すのか、それは人に依るだろうが。(そしてその人に依る部分を今すごい考えてる。)○○のように、全ての人を助けようと策を講じ実践するのは大切だし、自身のブログもそのためのものだと考えてはいるが、世界を完全な状態に作り変えることはできない。
…あれこれ考える機会を与えてくれるP5R、作った人たちは天才か?
話が逸れたけど、現在においてのぼくの結論として…。少なくとも今監禁されていないようなぼくらは、それが実際には自身の選択と呼べるようなものではなかったとしても、手元にある最善だと思うものを一個ずつ拾っていくしかないのだと思う。(このような結論でなんだか申し訳ない気もしますが…)。ぼくは本来の自身の考えを、何処かで否定したいのだと思う。それは多分、子どもの時に見たアニメとかの浸っていた文化によって、綺麗だとされる概念を刷り込まれた幼少期があったからだとは思う。本当にはぼくらは自由で、努力さえすれば皆が幸せになるような道を選べるんじゃないか。だからというわけではないが、そういう社会にするためにできることをしながら、今目の前にあるポジティブな何かに目を向けていけたらと思う。
・余談
個人的に目が離せなかった明智。彼は何でもできて何処にでも行けるように見えて、ずっと不自由に生きてきた。自分の「やりたい」じゃなくて、どうしたら認められるか、どうしたら復讐できるか、それだけしかなかったから。教育の理論とか知らなかったと思うし。(関連記事:「教育の理論「概要」」本当に教えてあげられてたら…)
そんな中にあった明智が、主人公たちに本当の意味で受け容れてもらえた。彼らは、許せないことは許せない、間違っていることは間違っていると譲らないままに、それでも明智の存在を否定しなかった。だから、多分明智は、誰よりも強く○○の用意した幸福を拒絶して、彼自身の感じた幸福を選びたかったんだと思う(実際には、これは潜在意識(脳)の問題なので、一発で完全に解放されたわけではないだろうと思うが)。それだけ、仲間とその体験が彼にとって大切なもので、何に代えても、失いたくなかったんだろうと思った。
過去や感情を否定することは、自己否定と同じ。自己否定は不幸の核だと考えるから、どんなに苦しくても、まずはありのままを認めてあげて欲しいと思う。
主な参考文献(作者五十音順)
・「ペルソナ5 ザ・ロイヤル」(2019)ATLUS PlayStation 4
・「国連人権理事会における日本のUPR審査に関する日弁連コメント」日本弁護士連合会 2024年10月20日参照 https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2008/080509.html
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