このブログでは、主なテーマが教育(精神論ではない、科学としての教育)なのに、人の持つ「妄想共有能力」もそれと同じくらい、大切に扱っています。なぜかといえば、メタ認知なしで、天動説が主流の社会に地動説を流布することは、人間の性質上、困難を極めると思っているからです。
そう考えるようになった理由は、主に子どもの頃の経験にあります。
ぼくは、感情否定、存在否定が頻繁に起こる家庭で育ったので、「きっと自分が悪いんだろう…」と感じる一方で、「本当にそうなんだろうか…?」という考えも常に心の何処かで育てていました。家庭が「環境」のほとんどを占めることになるだろう子ども時代にとって、それは常識を疑う経験でした。
特に、13歳で酷い神経症(強迫性障害)に陥り、「精神障害者」という目で見られるようになってからは、ぼくに人権はなくなりました。学校ではあれだけ、基本的人権の尊重だの、平等だの、優しさだのを強調された教育が行われていたにも関わらず、それは家族だけではなく、周囲の態度を一変させてしまうものでした。「精神病」で差別を受けているはずなのに、精神病は甘えという認識のもとに苦しみを否定され、発言は全て妄想として、誰ひとり、ぼくの言葉に向き合おうとする人はいなくなりました。外部に虐待の苦しみを訴えても無視されるか怒鳴られるか存在否定です。病気の苦しみを訴えれば閉鎖病棟に閉じ込められてしまいます。表向きはへらへらと笑い、家の中では両親に助けを請う。時には、泣きながら土下座して、「助けてください、助けてください…!!」とお願いしました。それ以外の選択肢があっただろうか、と今でもぼんやり思います。苦しくてくるしくて、どうにかなってしまいそうで、それでも、家族、周囲の人間が真剣になってくれることは遂になく、結果、ぼくは幼児退行していくことになりました。
今、それを「差別・虐待」だと認識できる方にとっては、それらは明らかに異常な状態です。でも、当時それに気付ける人は、少なくともぼくの周囲には一人もいませんでした(「他人の家のことだから…」という理由で近寄らなかった方もあったかもしれませんが、それも人権侵害を看過していい理由にはなりません)。どんなに酷い扱いを受けていても、みんながしていることなら、「そういうものだ」と納得してしまう人間たち…
妄想共有に限らず、個の価値観に頼らない人間の不可思議な行動・現象は、誰でも経験するような日常的な部分にも、しっかりと見られます。一番分かりやすいのは流行やいじめかと思いますが、たとえばオリンピックの時なんかはどうでしょう。なぜ、テレビで特集を組んでまで、みんなで日本の選手を応援しようとするのでしょうか?自分も日本人だから?愛国心薄い国民性なのに?よく考えると不思議ですよね?より近しいものを応援したくなるのもまた人間の性質だとして、これも「自身の価値観(その人なりの根拠があって形成されたもの)」からは離れた行動です。そしてそれを集団で一斉に行い、疑問すら持たない。
学校で大切にされてきた「無遅刻無欠勤」という概念はどうでしょうか。ぼくは37歳で高校生になったこともあり就職を心配していたので、教員の勧めるまま、就職において大切とされる無遅刻無欠勤を達成しましたが、実質、評価されるような事柄なのでしょうか(感染症を機に一部では見直されるようになりましたが)。達成した人の中でも、「体調管理ができた結果」の方であれば、社会的な文脈では素晴らしい意味を持つのかもしれませんが、体の強い人や、無理をしないでもいい生活を許された人ばかりではありません。「無理をしてまで無遅刻無欠勤に拘った結果」獲得した人の方が多いはずです。であれば、それは逆に「体調管理できない人」ということになりませんか?普通、会社を束ねる人間にとって、体調が悪いのに出社する労働者はありがたくない存在です。他者の健康を害したり、パフォーマンスを下げたりする可能性があるのに、同じ給料を支払わなければいけないからです。
これらはあくまでたとえですが、「常識」といわれるようなものの多くは、事実や根拠があって常識とされているわけではありません。多くは、大勢に共有された「妄想」が常識化しているだけです。
後に教育は精神論ではなく、科学だということを書籍等から学ぶことになりました。大学や教育委員会など、専門機関ですら未だ精神論を軸に教育を扱っていると感じますが、そこには根拠がありません。いや、根拠がないどころか、その現行の教育によって、ひきこもり推定140万以上、自殺者一日約60人の国が出来上がってしまっているのです。これは立派な反証の1つです。
ぼく自身、子どもの頃の経験によって現在も発達性PTSDで苦しんでいますが、「大人になったら自己責任」といった言葉を、教育関係者までもが日常的に浴びせてきます。でもこれってよく考えなくてもおかしいですよね?それが「事実」であれば、そもそも教育は子どもの一生を左右するような大切なものではなく、その大切ではないもののために資格の必要な専門家やそれらを育てる専門機関までもが存在してるってことです。教育学、心理学、社会学、脳科学等が証明している、「人間は遺伝子と環境で決まる」といった概念を教育の知識として取り込みながら、未だそれを理解できている教育者が少ないというのは、一体どういうことなのでしょうか?
いつの時代も、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が人間の真実の1つだったと思うのです。黒人の大統領が誕生する、誰にも評価されなかった画家の絵に後年高値が付く、有名人になった途端親戚が増える、等々、じゃあ本当に、それ以前にその人や物に価値ってなかった?本質が変わって価値が変わったってこと?それらは全て、個々の価値判断ですらない集団における評価(妄想)で、価値を変動させていいものなのでしょうか。個々の人に尊厳があり、平等な権利があると主張する社会であるなら、個々が個々のままに、個々の幸せを追求できる社会を目指さなければ、それらを全て「嘘・絵空事」にしてしまいます。人間性も能力もお金も、全てを自己責任だとして格付け、見放し差別することは、非科学の元に人権を切り捨てる行為です。
そのような経験と考えから、妄想共有の概念を全面に押し出すことで、教育の常識と在り方を変えられたらと願っています。
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