肩書きは思いのほか当てにならない

②けいけん(考え)
画像出典: cp17
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1. はじめに

知識を選別する際、誰が言ったか、どれだけ多くの人が言っているかを基準にするのは危険だ。特に2024年現在の日本では、専門家が実践的な知識を持っているとは限らない。肩書きや数に惑わされず、そこに納得できる根拠があるか、自身で学び、考え、その価値観を元に判断していただければ、と願う。

人は妄想共有能力を持つこともあり、社会で評価されている肩書き・ラベルに弱い。「教員」というだけで、一般のイメージから「いい人」と思い込んでしまったり、「○○大学卒」というだけで「頭がいい・人として偉い」と感じてしまったりする。ぼく自身、教員免許を取得予定で、それを表向きに示すことで、まずは話を聞いてもらおうとすることがある。にも関わらず、ぼくが中年学生だからなのか、それまで馬鹿にした態度を隠そうともしなかった人の態度が一変すると、なんとも複雑な気持ちになってしまう。

当該記事によって、肩書き(地位)ある方をおしなべて非難したいという意図は、勿論ない。教員には「いい人(個々の感想ではあるが)」もおられるだろうし、有名大学を出ていたり医者という肩書を持っておられたりするということは、少なくとも一定以上の学習能力を持ち、多くの努力をされた方も多いということだと思う。天才と呼べるような方たちもみえるだろう。
ここで言いたいのは、教員だから信じられる、教育に詳しいかといえば必ずしもそうではないということ。逆にいえば、低学歴だから、障害があるから頭が悪いとか、共感性が低い、仕事ができない、というのもまた違うだろうと考える。

2. 大学での教育学に対する感想

ぼくは教員に憧れて教員を目指したわけではなく、自身を否定してきた他者に自分は間違っていなかったと証明したい・認められたいという切迫した欲求と、自身が苦しんだ分野を変えたいという切実な思いから教育を学んだ。目的達成に危機迫る感覚があったため、目の前の理論が納得できるか、効果が期待できるかに焦点が集まる。「なんとなくいいこと言ってるっぽいけど根拠がない」知識は、自身の経験とも擦り合わせて大抵そっと箱にしまっておくことになった。一方で、分野を跨いで共通する、教育に関する知識も存在した(関連記事:「教育の理論」)。何事も精神論で語られがちな日本では一般的ではない(常識ではない)ものの、根拠もデータ(統計)もある。主に教育の分野で苦しんだからこそ、腑に落ちる経験則的理解も、一部だが存在したと思う。

そのような経緯から、大学では教員資格のための勉強を楽しみにしていたのだが…、個人的には、漠然としていて実践的ではないと感じる内容だった。教育学部でなかったせいかもしれないとも考えたが、であれば内容が限られるからこそ、学習の要点を付く必要が出てくる。尊敬できる先生もおられたし、とてもためになる講義、教科書も存在したが、この学習内容で日本の教育が良くなるかといえば、十中八九ならないと思った。たとえば心理学の基礎が取り込まれても、どのように役立てるかの説明がないまま終わる。解釈をしろとの指示もない。残念ながら、教員を目指す生徒には現役でいじめをしていたり、レポートを買って済ませる方も少なからず存在するので、そこから何が言えるかを自主的に考えられる生徒ばかりではない。話をする限り、大学教員ですら、それを理解しているか怪しかった。いくらかの最新の知識をトッピングしても、結局日本の教育の軸は精神論で回っている。愛されて、恵まれて育った子どもが前提の教育なのだ。だからそれで片付けてしまえる。ひきこもりの数も、自殺の数も、格差の深刻さも、憂いては見せるが問題意識を持ってはいないのかもしれない。愛とか思い遣りとか人生経験とか個々の判断とか、ふわっとした言葉でコーティングしても、じゃあたとえばどうしてひきこもりの子はひきこもるのか、どうしてあげたらいいのかという具体的な説明がない。理論上、全員同じ理屈と対処が当て嵌まるわけじゃないし、理論を学べば実践は簡単というわけですらないが、そこを理解しなければ対処も何もないだろう。

日本の教育、医療、社会保障の在り方を疑問視し、これまでの歴史と現状を示しながら問題提起される先生がおられる一方で、「しっかりした愛情は親に任せればいい」、「日本は先進国、人権問題などない」、「社会保障はセーフティネットとして機能している」、と表明される先生もおられた。ぼくは結果として2つの大学を跨いだが、どちらにしても後者の先生の方が圧倒的に多かった。心理学を教え、精神疾患について教えているのに、日本の精神科医療の有様は知らない…

記事:「妄想共有能力」でも述べたが、常識は事実ではない。多くによって共有された妄想が常識になる。そのために、少数派の考えは切り捨てられてしまうことが多い。世界の支持が天動説であれば、どれだけ地動説を訴えても殺されてしまうのが人の世の常だった。子どもの頃大嫌いだった言葉に、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というものがあったが、悔しかろうが全くもってその通りで、いじめや差別、犯罪でも皆で共有することに価値があるために、如何なる世代でもそれが罷り通ってしまう。化学や考古学のように、ひとつの物的発見から、それまでの成果をひっくり返さざるを得ない分野はいい。しかし、教育学や心理学のような確たる証明が難しい分野において、困っていない人(傾向としては金銭的にも愛情的にも恵まれて育った人)の多くにとっては、それまでの妄想を共有し続ける方が、「安全」で「価値」あることなのだ。たとえ脳科学等からのデータから導けるような理論があっても、それなら教育を見直さなきゃ!とはならない。温暖化が危険だという認識が普及していた当時でも、グレタ・トゥーンベリ氏が必死に活動する様を、多くの人は笑ってみていた。ぼく自身、エアコンを完全に捨て去り、車を買い替えたかといえばできていないから偉そうなことはいえないが、人間には確実にそういう性質がある。教育は変えなくてはいけないし、そのためには日本風土をも変える必要がある。それでも今はまだ、専門機関にすら知識を普及しなくてはならない段階にある。

3. 高学歴の方の一部、例

精神科医やカウンセラーも同様で、たとえ国家資格を持っていても実力のある方ばかりではない。(詳しくは関連記事:「専門家に頼れない?心の問題」)
十年近く前、某有名大学出身の僧侶の方がカウンセリングをされていたので、受けたことがある。その方が資格を持っておられたかは分からないが、比較的安価とはいえ2000円を支払った。その方に、医療の現場でトラウマを負った体験等を話すと、「そんなことはあり得ない!」と怒り出した。「法治国家でそんなことはできないはずだ」、「優性思想を持っている日本人なんかそんなに多いわけがない」、と。実際、憲法が破られてそれ以上の非人道的なことが起きていたことは多くの文献に示されているし、優性思想とは「仏教」のようなものだ。「私は仏教徒ではない」という認識でも、仏教の考え方や慣習は我々日本人の文化に知らずしらず組み込まれているもので、優性思想も「私は優性思想者です!」と認識している人の方が少ないだろう。しかし彼にはその理論が理解できないようだった。それではあなたは各種文献すら全て嘘だというのか、と問えば、「なんだと!?」と返ってくるし、私の体験を全て嘘だと決めつけてはカウンセリングにならないだろうと問えば、「自分にとって都合のいいことばかりを言いやがって!」と返ってくるため、議論にならない。彼が一方的な説教を続けてカウンセリング時間をオーバーしていたことも、「お前のせいだ!」と宣い、「お前が馬鹿なだけで話は聞いた!後はお前がどうするかだ!カウンセリング料は返さないからな!」と部屋を追い出された。(金銭的には恵まれても、メンタル面においての教育には恵まれていない方だったのかもしれない)

全ての学歴ある人がそうではないと思うが、学力は基本、親の収入に依存するというデータが内閣府から出ている。勉強ができることは素晴らしいことだと思うが、だからといってそれ以外の知識があったり、事実を見極めたり、柔軟に物事を考えたり、自身の仕事の本分に取り組んだりできることを保証するものではない。

4. まとめ

日本では、学歴が高い人が、偉いとされる地位につきやすい。しかしそれぞれの仕事分野において、本当に実力があって、共感能力等に優れているかといえば、それはまた別の話。行政でも福祉機関でもNPOでも同様だ。名前だけを聞いて「人のために動いてくれている組織が存在している」と安心してしまいがちだが、実際には目的のために動く意思があるかどうかすら怪しい(だから問題は解決していかないし、どの分野でも「決して一部とはいえない範囲で」、政治家の汚職事件のようなことが問題になっている)。自身の生きづらさを解消するためにも、これは常に心に留めておく必要があると思う。

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