先日、「テイルズオブファンタジアなりきりダンジョンX」という、若干タイトル名の長いゲームを遊ばせていただきました。私の解釈として、このゲームの1つのテーマは、「遺伝子と環境によって出来上がる人間の言動の責任は、果たしてその人間のものか」、だったのだと思います。だとすれば、このブログに最適のテーマだと考え、取り上げさせてもらうことにしました。
初めに、押さえておきたい重要なポイント(あらすじ)はこちら。
・13歳の主人公、ディオとメルの言動は、彼らの本質を試すために監視されていた。なぜなら、彼らは百年もの昔、多くの人の命を奪う事件を起こしていたから。当時ある存在によってその罪が裁かれる際、「親に捨てられなければ」、「戦争さえ起きなければ(こんなことはしなかった)」と、自分たちのせいではないことを主張したため、それが本当かどうかを確かめるために、新たな時と場所で再び幼児から育てなおされていたのだ。
ディオとメルからすれば、全く身に覚えのないことで監視されているわけです。
まず、犯した罪について、(100年前の)当人たちによる「自分たちのせいじゃない!」という理屈は通用するのでしょうか。つまりは、「人間は遺伝子と環境によって形成されるのに、果たして言動の責任はその人間のあるのか」という問いです。
科学的な視点からの結論をいえば、「否」です。如何なる人間の言動に対しても、「自己責任」はあり得ません(ディオとメルも、新たな環境では罪を犯すことはありませんでした)。…もう何度も答えを言ってしまっていたようなものでしたが(すみません)、人は遺伝子と環境によってつくられる(これは主に教育学や社会学でよく聞かれる表現かと思います)のであって、遺伝子が全てを決定しているわけではありません。原因に、心やたましい、人間性といった言葉も挙がらないのです。それらは、(環境から学習し機能する)脳の働きがあたかも独立して存在しているかのように表現されただけのものです。あるのは、遺伝子(物質)と環境だけ。それによって形成された個(人間)が、心や人間性といった言葉で表現されるように、まるで自由意志で(主体的に選択して)生きているように認識されていますが、この時点で既に科学的な解釈を出てしまっているわけです。「いや、私は自分で全てを選んで生きてきた!」という方がみえたとしても、「じゃあ、その選ぶという行為の主体になっているあなたは、誰がつくったの?」と考えていくと、分かりやすいかと思います。よくタイムリープもので、「同じ人間が全く同じ環境に身をおけば、全く同じ決断をして、全く同じ行動を起こすはずだ」といった発言が出てきますが、この考え方が示すように、「つくられた自分」が外界に対する反応として特定の言動に至り、それが蓄積したものが個性(と呼ばれるもの)だと捉えられるのです。
言葉にするとちょっとややこしいですが、単純に「人は遺伝子と環境によって決まる」という結論です。
クローン技術が台頭した頃、「この技術があればヒトラーが再来してしまう!」という声が上がりました。しかし、たとえヒトラーの遺伝子を用意しても、育つ環境が違えばかつて独裁者として君臨した「あのヒトラー」にはなり得ません。一卵性双生児の遺伝子情報はほぼ一致しますが、仮に全く同じだったとしても、双子が同一人物だとはならないでしょうし、誰もそう認識しないのではないでしょうか。
もし、現実の日本社会で、犯罪者が「これは自分の責任ではない」なんてことを言ったら、おそらく、一方的に責められますよね。私たちが、「他人のせいにするな」、「自分の言動に責任を持て」、「変えられるのは自分だけ(自分で解決できる、解決しろ)」といった言葉を聞くことは日常茶飯事ですし、そういった精神論を軸に、特に日本の社会や文化(多くによって共有された妄想)は形成されてきました。だからこそ、日本では今も死刑が認められているんだと思うのです。本当は社会全体の問題なのに、一人に責任を押し付け、問題を解決(したような気に)させる…。とはいえ、ここまでの話を理屈として理解してくださった方も、犯罪のようなケースにおいて納得できるかといえば、「それはまた話が別だ」とおっしゃる方が多いのかもしれません。
少なくともゲーム内では、ディオもメルも、育て親の愛情のもと、すくすくと優しい子に育っていました。誰かを意図的に殺めるような罪を犯すこともなく、困った人を助け、反対に罪を犯した人の気持ちを想像し、悩み苦しむ。
「他人のせいにしない」、「変えられるのは自分だけ」のように思考することは、時と場合によっては、とても便利な道具になります。反対に、全て自分で決められないと考えて生きることは苦痛にもなり得るでしょう。けれど、これら「自己責任」的な考えは、自分で解決できない問題(病気、障害、虐待等々…)を抱える人たちを、(死へと)追い詰める結果も招いています。人間は決して、独立して存在できない生物です。私たちが心と認識する働きも、他者の存在(周囲)を織り込んで形成されているといえます。
大量の障害者殺傷事件が起きる度に、専門家(おそらく社会学者)は以下のように主張したと記憶しています。「これは犯人だけを死刑にして解決できる問題ではありません」と。その理由が何処にあるかといえば、「自己責任というのはただの精神論、もしくは常識(大勢に共有された妄想)に過ぎないから」・「人は社会によって形成される化学反応的産物だから」、という「事実」です。
科学的な考えを知った上で、現実の価値観(妄想)を見直すことが、これまで求められ続けてきたのではないでしょうか。妄想が行き過ぎて、多くの生きづらさが生まれています。ひきこもりや自殺も、日本ではもはや当たり前のように捉えられている節がありますが、どこの国でも多発している現象ではありません。
13歳の男の子と女の子であるディオとメルは、最終的に、過去の自分の罪を背負うと決めます。仲間たちも、その意思を尊重しました。愛情をもらって優しく育った子どもたちが出した、苦悩の末の決断でした。彼らには、罪を犯して孤独に苦しみ続ける過去の自分たちを見捨て、自分とは関係ないと切り捨てることができなかったのだと思います。その自分たちが殺めた多くの人の命を無視して、自分たちだけが幸せに生きることも。でももしこれが、一方的な裁きとして押し付けられたものであったなら、きっと仲間たちは抗ったと思うのです。日本の価値観に、命懸けで逆らったはずです。一方で、少なくとも私は、ディオとメルの選択に納得がいきませんでした。だって、その選択をしたディオとメルもまた、環境によって作られた存在だからです。「罪を背負う」という選択を、環境によって強いられているに過ぎない…。どうすれば、過去の存在(罪)を癒し、自分の人生も大切にできたのか。どうすれば、被害者に償うことができたのか。それを可能にする選択肢があったとして、それを生み出すべきなのは当人(個)ではなく、環境(全体)だったはずです。(なりきりダンジョンXは、現実を見つめ直させてくれる素晴らしいストーリーでした。)
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主な参考文献
・「テイルズ オブ ファンタジア なりきりダンジョンX」(2010)バンダイナムコゲームス PlayStation Portable
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