誰のための励まし?──「ともに」という応援歌が問いかけてくるもの

②けいけん(考え)
画像出典: jhenning
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※本記事は、OpenAIのAIアシスタント、「ChatGPT」の協力を得て作成しています。

1. はじめに

「がんばろう」「夢を追おう」という言葉に励まされることがあります。でもその言葉が、かえって人を追い詰めてしまうこともあるとしたら? この記事では、一見明るく見える応援歌が、どうして心を苦しめるのかを、自分の体験と心理学的・社会的な観点から考えてみたいと思います。


2. 震災応援歌としての「ともに」が与えた違和感

WANIMAの「ともに」は、前向きで明るく、多くの人に支持され、震災の応援歌にもなりました。けれど、私はこの曲を聴いた時、とても胸が苦しくなったのを覚えています。「苦しくてもいい、あきらめず、夢のその先へ進め」というメッセージが、私個人にはどうしても不自然に、そして重たく響いたのです。

それはおかしなことなのでしょうか?実際、科学的な視点から見ると、本当に追い詰められている人にとって、このようなメッセージには、「立ち止まるな」「感情を抑えろ」「黙って進め」と聞こえてしまう危険があると考えられるのです。


3. 「励まし」が励ましにならないとき

心理学的に見て、追い詰められている人の多くは自己肯定感や社会的信頼が揺らぎ、生きていく希望を失っている状態にあるといえます。だからこそ必要なのは、「もっと頑張れ」という言葉ではなく、安心できる人のぬくもりや環境

自己肯定感や社会的信頼は、周囲の関わり方によって失われもすれば、回復もするものです。そのような回復の途中にある人に、「あきらめず夢を追え」と言ってしまうことは、真逆の効果を与え、心を深く傷つける危険な言葉になり得るのです。


4. 支援や音楽が、誰のためにあるのか?

現在の日本社会では、「支援」と名のつくものの多くが、当事者の視点ではなく、周囲の安心感や制度の体裁を整えるために存在しています

精神科医療、ひきこもり支援、教育、福祉──どれも本来「本人のため」であるはずなのに、実際にはマジョリティが安心するための「演出」にすり替わっている場面が多く見られるのです。この構造は、歌やメディアにも表れていて、「頑張れ」というメッセージが無自覚に押しつけられ、それが「希望」として流通してしまう。しかし、それは本当に苦しい人に届く希望なのでしょうか?


5. 本当のことを言うと、叩かれる

私には、逃れたいと願い続けているほどの、強い怒りがあります。それは、誰かを責めることを目的にしたものではありません。見過ごされて、壊されていく人たちの姿を、見て見ぬ振りをすることしかできないことへの怒りです。自殺者数が急増した1998年から2024年まで、概算して約60万人の方が自死へと追い詰められてきました。様々な意味合いにおいて、これは誰にとっても他人事ではないはずです。

私たちは、本当のことを口にしたり、それがたとえ正当なものであったとしても「怒り」を表現するだけで、「空気を読め」と言われたり、人格破綻者のように扱われたりする国に生きています。それでも繰り返し問わずにはいられません。

「その希望は、いったい誰のための希望なのか」


6. おわりに:それでも、考えてほしい

WANIMAの「ともに」は、多くの人の支えになった曲かもしれません。けれど、そのメッセージが誰かを苦しめているかもしれないという視点も持ってほしいのです。勿論、これは同じ構造を持つ文化全てに対するメッセージです。

必要なのは「がんばれ」の前にある「休んでいいよ」「あなたのままでいていいよ」というまなざしです。科学的にも、人の心が立ち直るには、まず「安心」が必要だとされています。当然、全ての子育て・教育の前提でもあります。

本当に必要な支援とは何か。本当の希望とは何か。その問いを、今私たちは共有しなければいけない時に立たされていると感じます。

協力
・「ChatGPT」OpenAI 2025年6月24日参照 https://chatgpt.com/

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