「制限があるから面白かったのに」
過去のゲームの現代向けアレンジに対する、知人の残念そうな言葉。
ビデオゲームという娯楽がストイックさを削り、万人をもてなすエンターテインメントとして変わっていくことを、ぼく自身はわりと歓迎していたのですが、この言葉にふと、思い出したことがありました。人生があまりに屈辱的な出来事の連鎖から抜け出られないものだから、精神を正常に保とうと、あれこれ思考を巡らせていた頃のことです。
視点を変えてみると、全ての成功を用意された人生は楽かもしれないけど、必ずしも幸せとは限らないんじゃないか(関連記事:「教育の理論」)。ぼくは成功じゃなくて、幸せが欲しいのだから、成功しても幸せじゃなければ意味がない。逆に、人生がどんなものであったとしても幸せになりたいのなら、酷い出来事ばかりの一生にも幸せを見出すしかない。それが可能かどうかは置いておいて、個人的に恐れおののくことになったのは、仮に他人が羨むような人生であっても、本人がそこに幸せを感じられなかったら、決して幸せな人生にはなり得ないという、ひどく当たり前なようで、意外な事実でした。「幸せって、自分で感じなきゃいけないものだったのか…!!」…そういえば、ペルソナ5のテーマもこれと結構似てたなあ。
ゲームは思い通りにいかないからおもしろいのか、ストレスがないのが心地いいのか。好みは分かれそうですが、どっちが正しいというより、これを道具として使いわけることで、各々の人生に幸せを見出すヒントとしては機能するのかもしれません。
成功ではなく幸せが欲しいと願いながら、ぼくはどこかでずっと成功を求めてきました。他者に認められなければ人として生きることすら叶わないなら、自分らしさも、好きも嫌いも意味がない。肉親がばらまいた誤解を解き、社会における最低限の名誉を取り戻す。病気や障害、真っ白な履歴書は自身の怠慢のせいではなく、ぼくこそが虐待や差別の、家族や日本社会の被害者だったんだと知らしめ、実力で仕事や社会的地位を手に入れる。しかし、どんなに努力して結果を出しても、証拠を集めて立証しても、それらを認めてくれる社会ではないことにいら立ち、人を恨んできた。無条件で愛されたいのに、愛されるために優秀であろうとする…。だから不幸でしかなかった。でも、ベクトルを向ける方向が間違っていたのかもしれない、と気付きかける瞬間がある、今回のように。ああ、もうちょっとで届きそうなのに、みたいな。人間は頭の理解と、無意識レベルでの納得と、感情がそれぞれ違う方を向いてることがあるから。
「幸せは、達成ではなく、身の回りにあると気づくもの」、最近ではそんな言葉もちょくちょく耳にして、なるほどなあ…って。確かに、努力しても、成功しても、それは本質的な幸せじゃあないんだろうな、と。それでも、人間は精神を独立させて生きることは叶わない生き物だから、社会的な価値観や承認を、完全には捨て去り切れないわけですが。(関連記事:「妄想共有能力」)
昔好きだったoasisの曲に、”Life is game we play.”という歌詞もありました。人生はゲームだよ。そんな簡単に割り切れるもんでもないですが、理不尽なゲーム盤の上で、そこに成功だけを求めるとしたら、そりゃストレスしか溜まらんわなー…
主な参考文献
・oasis(1995)「Hello」『(What’s the Story) Morning Glory?』Creation Records
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