※カテゴリー「奮闘記」では、様々な事象に対して、理論としては理解できても、発達性PTSD故に葛藤する日々を記しています。共感していただけたり、そういった方と関わる方の参考になったりすれば幸いです。
先日、「HUNTE×RHUNTER」というアニメを一気見した。学校の勉強は終わったし、当分自分の治療に専念することにしたので、時間だけはある。勿論、毎日ルンルンで過ごせているわけではないが、楽しく過ごせるような思考の習慣を身に着けようとしている感じ。で、そのアニメで、「○○のことは何があっても絶対に裏切らない」とか、「○○がどうあっても友だちだ」、みたいな言葉が連発されてて、大きな違和感を感じた。
普通健康に育った人は、環境の中で「自分には価値がある、人間は皆味方だ」と感じ、それが時間を掛けて潜在意識に刷り込まれていくので、基本友達を作るのに不自由しないし、友だちという定義に悩むことも少ない。何故なら、人に堂々と友好的に近づけるし、安全のため同じような匂いの人と仲良くなっていくから、お互いに疑問を抱かないままに利益を提供し合える。そしてそれが当たり前すぎて、もし自分が利益を与えられなくなったら見捨てられるかもしれない、などと考える必要もないわけです。
で、ぼくが感じた違和感というか疑問は、「相手がどうあろうと友だち」、だとするなら、そもそもその友だちである必要ないんじゃないの?というものだった。(正直、ダイレクトに思ったのは、「いやそんなわけねえ、自分の子どもだろうが友だちだろうが恋人だろうがみんな俺を見捨てた、病気だというだけで皆離れていったし、今も見下され差別しかされねえ!」だったけど、「よしよし、そう思うのは当然だよね…」と自分をなだめながら観てました。)
子どもの頃、「ねえ、私が歳を取っても、もし別人みたいな不細工になっても、私のこと愛してくれる…?」みたいな台詞をドラマで聞いたことあるけど、それも同じこと。ぼく自身、何があっても愛されたかったという思いがあるし、今もそういう無条件の愛情を何処かで求めてしまっているけど、もっと言えばそういう愛があって欲しいと願ってもいるけど、基本、人間は条件付けて相手を選んでいる。顔、性格、地位、お金、人気、そういうものを総合して相手を無意識に値踏みしてから、恋愛感情すら作り出している、という話もある(心理学、進化生物学)。それが友だちの話であっても、相手の見た目や性格が変わったら、今まで通りの関係は成立しなくなるだろう。だって、それは誰かが愛した(友情を誓った)その人ではないわけでしょう?
もっといえば、何があっても友だち、ということは、誰かれかまわず友だちのように愛せばいいじゃないさ?なんでその個体に固執すんの?ということになる。
これらの考えって、愛されて育った人、自然に「何があっても友だち」みたいな言葉に共感できる人からすると、不自然に響くのかしら…。先にも言ったように、「その人を」愛するっていう概念はぼくも存在して欲しいという願いはあるけど、そういうのって社会で共有された妄想が常識化した(関連記事:「妄想共有能力」)というだけと頭では考えてるんだけど、「それは違うと断言できる何か」を心(脳、潜在意識)の中に持っているものなのかな?だとしても、それすらも環境から学習した妄想だろうということにはなってしまうんだけど、ぼくは、存在して欲しいような気もするんだよな…。そしてそれをいつかぼくも学習したい、体感したいというような憧れはある。(そういえば、『友だち幻想』という本もあった。面白かったな。)
余談ですが、一気に見ることを英語でbinge watchingと言います。他動詞として、I binge watched ~みたいにも使えるよ。
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